1020年4月 閑話:早春賦

氷解は未だ遠く。

柔らかな風が頬を撫でる。
針仕事の手を止めた永環は、風の吹いた方向へと顔を向けた。
日の光を受けキラキラと光る草木の様子が、永環の視界へと入っていく。
少し前までは満開の笑みを浮かべていた桜の木々はすっかり新緑に染まっていた。
木々達はもう少しすると、萌える緑を纏うのだろう。
永環が初めてここに訪れた、あの夏の日のような。

あれから半年以上が過ぎた。
相変わらず静寂が包むこの場所で、永環は自分でも信じられない位に穏やかな日々を送っている。
討伐も交神も何も無く、誰かに定められた宿命も無い、自分だけの時が流れていく。
生前、あれほど永環が望んでいた場所が、ここにはあった。

永環がこの場所について知っていることは、それ程多くない。
ここが天界である事。
自分は地上で天寿を全うしてから、この場所に「招かれた」と言う事。
今住んでいるこの家が、生前住んでいた高千穂の邸宅と同じ作りである事。
周囲が野原に囲まれており、この家以外には人の住む形跡が見当たらない事。
そして、地上と同じように夜は明け、日は沈み、四季が巡ること。

生活に困ることはない。
イツ花のような世話役はいないが、欲しいものを書き留めた紙を、勝手口にあるイツ花が買い物用に使っていた籠の中に入れておけば、知らないうちに家に用意されている。
家事全般は望めば対応してもらえるようだが、永環は自分で行う事を選んだ。
戦う必要の無いこの場所で、他に永環が出来る事は無かったから。

この家で共に暮らす巡流は、やはり生前と同じようにずっと縁側に居た。
ただ、あの時と違いとても覇気が無い。
お茶を差し出せば飲むし、食事を促せば食べる。夜も床には就いている様子だが、生前以上に口数は少なく、目はどこか虚ろで、表情も曇ったままだ。

巡流一人だけの期間に何があったのか永環は知らない。
気になっているのだが、巡流に立ち入った話を聞ける立場に今の自分は無い、そう思っているから。

二人の間に会話は少ない。
それでも、この場所では二人穏やかに暮らせていた。
きっと、今の自分達にはこれで十分なのだろう。
永環はそう思うと、少し寂しそうにため息を吐く。

「何だよ、またため息か?」

部屋の入り口から、聞き慣れた声がした。
声の方向へ視線を向けると、そこには障子に寄りかかった火車丸が永環の様子を伺っていた。

「火車丸様、最近よくお見えになりますね?」
「よく来るって言っても一週間に一回位だ。そんな多い訳でもないだろ」

火車丸は、実際かなりの頻度で永環の元に訪れている。
名目上は「仕事の途中で寄った」なのだが、実の所は家族仲が芳しくない永環を心配し、こまめに顔を出してくれているのだろう。
口は悪いが、自分達一族の事を心配してくれているのはよく判る。

「ほら、土産だ」と言い、火車丸は手に持った紙袋を永環に手渡し、永環と向かい合うように座った。
永環は遠慮無く受け取った紙袋を開ける。
取り出してみると、それは永環にとって見たことが無いような甘味だった。
肌色で、いびつな円形で、ふわふわしていて、見た目よりも重みがある。
それを甘味だと永環が判断しているのは、そこから漂ってくる甘い香りと、いつも火車丸が持ってくる土産は永環が好みそうな甘味ばかりだという過去則からだ。

「いつもありがとうございます」
「礼はいいから早く食ってみろって」

火車丸に促され、永環はその甘味を一口頬張った。
次の瞬間、永環の瞳に輝きが増したのを確認し、火車丸は笑いながら言葉を続ける。

「それは『シュークリーム』って菓子だ。あすかの知り合いが居る所にコイツが有名な店があるって聞いてさ、丁度そっち方面に行く用事があったからな」
「鳳 あすか様、色んな甘味をご存じなんですね」
「アイツは女が喜ぶモノは何でも知ってる。アイツの軟派技術がこんな所で役に立つとは思わなかったぜ」

鳳 あすか、と言うのは火車丸の口からよく出る風神の名だ。
火車丸とは「呑み仲間」と言う名目の旧知の仲で、永環も交神の際に数度会ったことがある。
双子の、特に初瀬が鳳 あすかにとても懐いていて、彼も大層双子の事を可愛がってくれていたらしい。
ある意味、双子にとっては「もう一人の父」なのだろう。

「天界には本当に色んな場所があるんですね」
「まぁな。天界人って言っても色んな種族に別れてるし、特色も多種多様だ。全部が全部一緒くたには出来ねぇって事だろ?」

詳しい事情は分からないけれど、天界には色んな場所があり、そこには神様だけではなく「人」も暮らしている、らしい。
場所によって文化風習が全く異なり、そこで神様や沢山の人達が日々の暮らしを送っているとの事。
実際、永環は三度交神で天界に訪れたことがあるが、三柱共に訪れた場所は全然違う光景だったのを覚えている。

「気が向いたら連れて行ってやるよ。こないだ持ってきた『ブルーベリーのチーズケーキ』の店は眺望も良かったぜ?」
「はい。……機会があれば」

永環は遠慮がちに微笑んだ。
きっと望めば火車丸は永環を色んな場所へ連れて行ってくれるのだろう。
しかし永環はこの場所を離れる事を躊躇していた。
この場所に、巡流を独り残して、自分だけが「外」へ出掛けられない。

……何故だろうか、そう考えてしまうのだ。
それ程に彼は一種の危うさをその身から醸し出している。
言葉では説明出来ないのだが。

「で、今度は何を作ってるんだよ?」
「えっと、これは着物で……」
「またか、何着作るつもりだよ」
「ウチは結構人数が居るから、みんなここに来るのなら、用意しておきたいなって思って」
「ふーん。で、それは誰の分だよ」

永環の膝元に置かれた、赤みがかった濃藍の着物生地を指し、火車丸は尋ねる。

「これは……その……」

永環が言葉を濁した所で火車丸は察した。
まぁ、既に永環自身や子供達の着物は作り終えているのは知っていたし、今手元にある男性物に使われるのであろう生地を見た時に想定はしていたのだが。

「『当主様』のだろ?そんな言い淀まなくてもいいだろうに」
「でも……作っても意味ないかもしれないから……」

そう言うと、永環は表情を曇らせる。
恐らくだが永環が巡流に着物を渡せば巡流はそれに「従って」くれる。
……けれど、永環が望んでいるのは「そう」ではない。

永環は今、白地の着物を身につけている。
生前は橙色の着物を好んで着ていた永環であったが、ここに来てからは巡流に合わせて再びこの着物を着るようになっていた。
出来るだけ生前と同じ環境を彼に与えてあげたい。
永環の手で「何か」を変えることが、怖いのだ。

「何をそんなに怖がる必要があるのかねぇ」

火車丸は頭を掻く。
永環が変化に対して恐怖心を抱いているのは知っているが、そこまで恐れるものなのかと言うのが火車丸の正直な気持ちだ。
だが「家族」だからこそ本能的に判ることもあるのだろう。
残念だが「外野」にはこれ以上の余計な口出しは無用である。

「まぁ、そのウチ良い方向に転がっていくさ。その為の準備だと思っていればいいんじゃねぇの?」
「はい、そう信じています」

彼女は心待ちにしている。
この地に彼女の望む変化をもたらしてくれる『新しい風』が届くことを。
きっとそれが、この家にとっての最適解なのだろう。

部屋に再び心地よい風が流れ込む。

「そういや、もうそろそろあいつらの誕生日か?」
「ええ。初瀬や逢瀬が生まれてから1年になりますね」
「その時は誕生祝いのケーキと二人分のプレゼント、持ってくるよ」
「ふふっ、楽しみにしていますね」
「おいおい余裕だな、持ってくるのホールケーキだぜ? ……ってまぁお前なら全部食えるか。結構大食いだし。まぁ食った後が大変かもだけどなぁ……」
「ちょっと火車丸様、それどういう意味ですか?」
「最近、心当たりあるんじゃねぇの?特に腹回りとか」
「だ、だって火車丸様が毎回毎回甘味ばかり持って来るからっ……ってそんな事を女性に堂々と言いますか普通っ!!!!!」

そんな他愛のない話を続けている二人。
部屋の外は気持ちいいほどに春の青空が広がっていた。
季節は徐々に、そしてはっきりと移り変わっている。

それでも。
何もかもが穏やかに流れていくこの場所に、本当の意味で次の季節が訪れるのは、きっともう少しだけ先なのだろう。
それまでは、次に来る季節を迎え入れる準備をしていればいい。
雪の下では硬く芽を閉じ、春が来ると花を咲かす、雪割草のように。


お久しぶりな天界編です。
今回はこちら側の様子や天界の概要などを交えてお届けしています。
巡流と永環の二人では全然話が動かないので、天界側の閑話はもう暫く出番がない予定でしたが、突然「誰か他に居ればどうにかなるんじゃね?」と思い立ちまして、急遽火車丸様に参加頂きました。
ありがとう火車丸様。シュークリーム大好きです。

なお、ご本人方の名誉のために書かせて頂きますと、愛染院 明丸様や根来ノ双角様も永環の所へ何度か訪れています。
火車丸様ほど頻繁ではありませんが。
多分火車丸様は仕事をサボる口実に永環を使っているって理由もあると思うんだ。

俺屍本編では天界側の描写は殆どないので、この辺は妄想大爆発な作りになっています。
今ここで描写されているのはあくまで高千穂家カスタムな天界の様子なのですが、きっと一族の数だけ天界の姿があるんだろうな。
他にも色々と妄想しておりますが、その辺は追々語らせて頂きますね。

巡流は相変わらず腑抜けているようで。
まぁ彼が動かないのにも一応理由はあるのですが、それも追々と言うことで。
……本編の時もそうでしたが、巡流と永環の二人だとホント動かないんですよ、話が。
ホント困った二人だ。

そして鳳 あすか様。
高千穂一族の物語には今までいっかな一つも姿を現した事が無いと言うのに、今回も大活躍です。
ただ単に、火車丸様と奉納点が近いって理由で出てきているだけなのに。
ありがとう鳳 あすか様。ブルーベリーのチーズケーキも大好きです。