普通が一番の幸せ。
__午前5時
高千穂 永環の朝は早い。
身支度を調え朝食の用意をするべく台所へと足を向ける。
台所では既に永環と同じく身支度を終えた命音がぬか床を混ぜている所だった。
「おはようございます、母さん」
「おはよう、命音。今日は和食の日よね?」
「はい。付け合わせにきゅうりの漬物をと思っているけど、それでいいかな」
「ええ。後は……鮭を焼こうかしら」
そんな、いつも通りの他愛ない会話が繰り広げられている。
天界の高千穂家においては、現在この二人が炊事と資材管理を担当している。
頼めば殆どのモノが調達出来る環境ではあるが、あまりに各々が勝手に注文していては家が大変な事になる……と言う事で、炊事の関係で食材注文の機会が多い二人が資材管理と発注をまとめて行う事になっていた。
十中八九、自分の好きな物を大量発注したがる信武と茜葎への対策である。
現に台所は信武によって土間のかまどや流し台は無断で撤去・改築され、板間に広々とした作業台と火を使わない家電製品の数々が設置されている。
地上の頃に比べれば圧倒的に暮らしが便利になったのは有り難い話だが、使い方も判らないような諸々を短期間に乱立されてしまっては、住人が追いつかないのだ。
「今日も兄さんの分は無しでいいよね?」
「そうね。あ、そこのお塩取ってくれる?」
信武は数日前から帰ってきていない。
最近では信武から外出時に連絡が無い場合、信武の分の食事は用意しないと決めていた。
それに信武の事だ、どこかでよく判らないモノをつまみ散らかしている事であろう。
心配は無用、である。
二人の動きは無駄なく互いを邪魔せず手早い。
その手腕で、あっという間に朝食の準備が済んでしまった。
同時にそれは、この二人にとって朝一番の大仕事が始まる時間を告げるタイミングでもあった。
「じゃあ、今日は僕が巡流さんを起こしに行くよ」
「私は初瀬と逢瀬ね。ホント毎朝起こすの大変なのよねぇ、あの三人」
そう、ねぼすけ三人組を起こしに行く仕事である。
これが言葉以上に難儀なのだ。
何度呼びかけても生返事ばかりで一向に起きてこないし、布団から叩き出せたと思ったら何処かで寝ていたりするのだから。
永環と命音は朝食の準備以上に気合いを入れると、各々担当の居室へと向かっていった。
__午前7時
「ではではっ、いただきまーす!」
初瀬から元気のいい声が出たのを合図に、信武以外の家族が箸に手を付けた。
今日は和食の日……と言う事で、各々の目前にはご飯やお味噌汁、焼鮭などが並べられている。
命音が以前に茜葎から貰っていた料理本のお陰で、天界に来てからは色々な料理が作れるようになった。
しかしその功罪か作れる料理数が格段に増えてしまい、日々の献立に悩む事が増えてしまった。
その為、曜日で料理の種類を固定する事にしたのだ。
朝食に限らず、食事は時間を決め揃って食べるようにしている。
家族とは言え全員と顔を合わせる事が出来るのは食事の時間位だ。
その時位は皆と一緒に過ごしたいと言う、永環の願いからである。
「……でもさ。この後もウチの一族がどんどんこの家にやって来るって事は、そのうち居間に入りきれなくなるんじゃない?」
「言われてみればそうね。座卓も既にいっぱいいっぱいになってきてるし……」
「初瀬の言う通り、居間の広さから考えると10人程度が限度でしょう。俺達が知っている限りだとまだ地上に4人は居るから、既に厳しい状況かもしれない」
「その時は大広間を使えばいいとボクは思うよ。来客は無い、会議があるわけでもない、どうせ殆ど使われない部屋なんだからさ」
「そもそも地上でも殆ど使われていなかったけどね。多分、武家屋敷だからって形式的に設けられているだけなんじゃないのか? 脇息なんて気付くと埃被ってたしさ」
そんな家族の会話を聞いて、そういえば殆ど大広間に入った事が無いなと巡流は思い返してみる。
特に今の状態……信武の代で改築された高千穂邸になってからは一度も足を踏み入れたことがない。
折角だから今日覗きに行ってみるか。もしかしたらつい先日庭を見に行った時のように、庭の紫陽花や桜の木のような逸話が聞けるかもしれない。
……などと考えながら、巡流は無言で白米を咀嚼していた。
巡流の行動範囲は極端に狭い。
その為、屋内の散歩でも巡流にとってはちょっとした冒険になっていた。
人が増える度、何か起こる度にこの家は変化していく。それを認識する事が最近の巡流にとってささやかな楽しみになってきていた。
「そういえば母さま、最近母さまって道場へは行ってるの?」
「え? 掃除なら定期的にしているわよ?」
「そうじゃなくて、薙刀の修練とかだよ。あまり道場で母さまは見掛けないなって」
「何言ってるのよ。ここでは薙刀なんて必要ないじゃないの」
「それじゃ駄目だよ、母さま。たまには体を動かさないと」
どうやら会話の流れが変わってきたらしい。
今度はどんな話題だろうかと、巡流は二人の会話に聞き耳を立てる。
「母さまってば、父さまからいっぱいお菓子貰ってるじゃない。あれって結構『カロリー』が高いんだよ?」
「え? 初瀬、カロリーって何?」
「母上、カロリーとは体内で生成されるエネルギー……要は体内活動量の単位です」
「そうそうっ! で、そのカロリーって言うのは人が活動するのに使われるんだけど、使われなかったカロリーは身体の中に溜まっていっちゃうんだよ」
「なるほど。で、体に溜まるとどうなるんだ、初瀬」
「命音兄、良い所に気付いたねっ。身体の中に溜まったカロリーは、脂肪になっちゃうんだよ!」
初瀬の言葉に、永環の顔色が変わった。
「今はいいかもしれないけど、気を付けないと段々脂肪が溜まっていって、ぶくぶくと太っていっちゃうんだから」
「ね、ねぇ初瀬っ。どうすればいいの??」
「カロリーを消費するのには運動が一番! 母さまは薙刀やってたから、薙刀の修練をするのがいいんじゃないかな。折角ウチには立派な道場があるんだから、使わないと損だよ」
「薙刀以外でも、今は道場に色々と運動器具を導入して貰いましたから、それらを使うのもよいかと思いますよ。使い方は俺が教えますから」
逢瀬が嬉しそうに話をしている。どうやら道場の設備は逢瀬が考えに考え抜いた末に選んだ自慢の品々らしい。
……そう言えば道場の様子も最近はよく知らない。道場にも覗きに行ってみようか。
そんな事を考えながら、巡流はキュウリの漬物に箸を伸ばす。
「ちょっと巡流さん。巡流さんにも関係ある話なんだから、ちゃんと聞いておいた方がいいよ?」
「僕に関係がある……何がだい?」
「カロリーと肥満の話だよ」
「そうですね。巡流さんも全然道場では見掛けませんから」
双子の視線が巡流に集まっている。
「今のままだと巡流さんってば、ぶくぶくのおデブちゃんになっちゃうよ?」
「そうなると僕にどういう影響があると言うんだい?」
「肥満が病気を引き起こしやすいと言う話もありますが、それ以上に見た目の問題も大きいでしょう」
「そうっ! おデブちゃんな巡流さんだと、母さまも嫌なんじゃないかなって思うんだ!」
永環に、嫌がられる?
そう言われて、巡流の表情が変わった。
箸に挟まれたキュウリの漬物が、座卓の上に落ちる。
「……どうすればいいんだい?」
「任せて下さい。俺が巡流さんに合った運動計画を作ります。その通りに運動すれば、今の状態……いや、もっと格好良い体型へと変化させることが出来ますので!」
「判った。お願いするよ、逢瀬」
「ええ、共に頑張りましょう、巡流さん!」
その日以降、道場で巡流の姿を見掛けることが多くなった、らしい。
__午前9時
まだ梅雨時ながら、今日はとてもよく晴れている。
この貴重な晴れ間を利用して、永環は洗濯物を干していた。
高千穂家にある洗濯機は乾燥までやってくれる優れものだが、天日干しの方が永環は好きなので、晴れているときは出来るだけ外で干すようにしている。
今日は布団用の敷布を洗ったので、干すだけでも大変だ。
それでも、乾いた後の太陽の匂いを含んだ敷布を使って寝る贅沢を思えば自然と頑張れてしまう。
天日干しの魅力は、労働の対価としては非常に大きいものだと永環は思っている。
こうして永環が敷布と格闘していると、敷布の向こうから大柄な鎧姿がちらりと見えた。
干した敷布を少しめくると、物干し場の近くに根来ノ双角の姿がある。
「根来ノ双角様?」
「あ、ああ、久し振りですな、永環殿」
「お久しぶりです。今日はどうされましたか?」
「いやその、特に用事は無いのだが……」
そう言うと、根来ノ双角は後ろに回した手を永環の目前に出した。
手には花束が握られている。
「よ、よかったらこれを……」
「いつもありがとうございます。とても綺麗ですね」
手渡された花束は永環には見慣れない形をしているものばかりだが、とても夏らしく明るい鮮やかな花々が選ばれていた。
根来ノ双角が永環の所へと訪れるとき、ほぼ毎回永環に花束を渡している。
不器用な彼なりの、永環へ対する思いやりだ。
それは永環も重々判っているのだが……。
花束を手渡して以降、根来ノ双角との会話が止まってしまった。
一生懸命会話を繋ごうとしている様子は、鎧兜の向こうからでもよく判る。
「あの……よかったらそこの縁側で休まれませんか?」
「あ、そ、そうだな、お言葉に甘えて……」
そこまで言葉を紡いだ後で、根来ノ双角の視線が永環の足下にある洗濯籠へと移った。
中にはまだ敷布が沢山入っている。
……そうなのだ、まだ永環は洗濯の途中だったのだ。
「すっ、済まない。家事の途中だったのだな。邪魔をしてしまった。こ、これにて御免!」
そう言うと、根来ノ双角は踵を返し走り去ってしまった。
永環は根来ノ双角の背を不思議そうな顔で見送ると、手に持った花束に目を移す。
折角頂いた綺麗な花だ。萎れてしまう前に水をあげなければ。
永環は洗濯場の方へと体を向けた。
……そんな様子を、少し離れた所で命音は苦笑いを浮かべながら一部始終見ていた。
実は彼もまた、永環と一緒に敷布を干していた最中であったのだ。
恐らく根来ノ双角は、息子の存在には気付いていなかったであろう。
「全く、父さんは本当に不器用だな」
それでも、両親の仲が良いことは子供にとっては嬉しい話である。
命音は永環が置いてった洗濯籠を手に持つと、上機嫌で再び敷布を干し始めた。
__午前11時
そろそろ昼の準備をしなければ。
洗濯を終え、居間の掃除をしていた永環は、壁に飾られた時計を見ると再び台所へと足を向けていた。
今日のお昼は何にしよう?
屋内は空調整備されているが、外はすっかり夏模様である。素麺はどうだろうか?
素麺なら具材は少ないし、初瀬の言う所のカロリーも低い……と思う。多分。
……そんな事を考えながら台所の敷居を跨ぐと、そこには珍しい人物が永環を待ち構えていた。
「よう、かーさん。やっぱりココで待ってて正解だったな」
「あら信武、帰ってきていたのね?」
「いまさっき帰ってきた。あらかたの用事は片付けてきたし、暫くはウチでノンビリする予定だぜ」
「あちこち遊び回ってて何が用事だよ、兄さん」
命音も台所に訪れ、兄の姿を見て眉を潜める。
「別に遊び回ってる訳じゃねーぜ?」
「行き先も何も言わずに出掛けて、連絡もせずに何日も家を空けてる人間が何を言っているんだ」
「あれ、二人に言ってなかったっけ。オレ、今は稲荷ノ狐次郎んトコに居るって」
信武の言葉に、永環と命音は驚く。
焦った様相で永環は信武に話しかけた。
「どうしたの信武。東風吹姫様と喧嘩でもしたの?」
「確か稲荷ノ狐次郎様の居る所って、有名な花街があるって……もしかして兄さん花街に入り浸ってるとか」
「んな訳ねーだろ。姫さんオレのやってる事もしっかり把握してるみたいだし、下手なこと出来ねぇって。まぁ、花街に入り浸ってるって言うのはあながち間違いじゃねーけどな」
「待って頂戴、信武。それはどう言う事?」
「狐次郎のコネで花街の一角にある建物を借りて商売してるんだよ、コイツで」
そう言うと、信武は懐からいつものタロットカードを取り出した。
「情報収集を兼ねて占い屋を始めたんだ。ああいう所は商売柄色んな奴が来るからな。そしたら結構当たるって評判になっちまって、申し込みが殺到して大忙しだぜ」
自信満々な信武の様子に、永環と命音は唖然とした表情をする。
信武といい茜葎といい、この親子はこちらが思い付かないような事を畳み掛けるようにやり始める。
先日も茜葎が地上でもやっていた貿易商の経験を生かして骨董品の売買を始めたとか言い出して、家の近くに専用倉庫を勝手に作っていた。
茜葎の件でも稲荷ノ狐次郎から多大に助力を受けているらしい。商魂逞しい嫁を貰ったことで稲荷ノ狐次郎も大忙しだ。
……これほどまでにお世話になっているのだから、稲荷ノ狐次郎へ高千穂家からお中元を贈っておいた方がいいかもしれない。
「まぁその話は昼飯でも食いながらしようぜ。色々とオモシレー話があるんだ」
「判ったよ兄さん。今から準備するから、出来るまで自分の部屋に戻ってなよ」
「ソレだよソレ。昼飯なんだけどさ、土産にフライドチキンを買ってきたから、皆でそれ食わないか?」
「何だよいきなり。そういう事は事前に連絡しておいてくれよ。それに今日は和食の日で……」
「別に和食だろーが洋食だろーがいいじゃねぇか。ついさっき買ったばかりだから、温かいウチに食おうぜ。ドリンクも用意してあるからさ」
信武は困惑している二人の肩を強引に抱いて台所から出て行く。
嫌味や小言を言いつつも、永環や命音はそんな信武の帰宅をいつも楽しみにしていた。
相変わらずの傍若無人っぷりを見せる信武だが、持って帰ってくる品々や逸話は物珍しく、高千穂家に新しい知見をもたらしてくれる。
時が止まったような日々の繰り返しが続く高千穂家にとって、信武の存在は重要なのだ。
「カロリー……信武の馬鹿」
「えっ、何でだよかーさん」
「仕方ないよ母さん。兄さんは朝のやりとりを知らないんだから」
まぁ、時にはギルティな誤算があったりするけれど、それもご愛嬌と言うことで。
__午後1時
永環にとって午後は自由時間だ。
元々和裁が好きな永環であるが、最近は茜葎から洋裁や手芸の本を貰ったので和裁以外にも手を伸ばしている。
今は自室で編み物に挑戦中で、かぎ針を使いあみぐるみを制作していた。
「……いつも思うが、見事な腕前だ」
突然声を掛けられ顔を上げると、すぐ近くに愛染院 明丸が立っていた。
……いつも思うのだが、天界には玄関から入ってくるという習慣がないのだろうか?
永環の部屋は寝ている時以外障子をいつも開けているし、家族がよく尋ねに来る事から自室に人が入ってくる事には抵抗がないのだが、そこだけは不思議に思ってしまう。
「愛染院 明丸様、こんにちは。お久しぶりです」
「ああ、元気そうでなによりだ」
愛染院 明丸は永環に向けて優しく微笑みかける。
その手には、幾つか反物が抱えられていた。
「永環は裁縫を好むようだから、今日は生地を用意してきた。永環が気に入ってくれればよいのだが」
「お気遣いありがとうございます」
永環の目の前に持ってきた反物を置くと、その内一つを広げてみせる。
それは赤を基調とした異国風の生地で、色鮮やかな幾何学模様が緻密に描かれていた。
とても上質で、触り心地も良い。
ただ、少し……いや、かなり永環の趣味とは違った、とても派手な生地だった。
どちらかというと信武が好みそうな柄だ。
もしかしたら信武のセンスは愛染院 明丸譲りなのだろうか、永環はそう思ってしまう。
ただ愛染院 明丸の選んできた生地は派手ではあるが上品で綺麗な意匠だと思えるので、きっと信武は愛染院 明丸の独特なセンスから悪目立ちする部分だけを器用に受け継いでいるのであろう。
「永環の趣味には合わないだろうか?」
「いえ、そういう訳では無くて、何に使おうかなって思って」
「そうか。この柄は永環によく似合う。きっとよい衣装になってくれるだろう」
愛染院 明丸様は、そう言うとその生地を永環へと羽織らせた。
「ああ、やはりよく合うな。永環の華やかな魅力を一層引き立ててくれる」
「そんな事は……」
「謙遜しなくてもよい。本当の事だ」
愛染院 明丸の口説き文句に、永環は何だか恥ずかしくて顔を紅く染めた。
正直言って、自分は華やかとは程遠い人間だと永環自身は思っている。
でもそうやって言って貰えてとても嬉しいし、何だか自分に自信が出てくるような気がする。
「そっか? オレはもっと派手な方がいいと思うけど」
第三者のぶっきらぼうな声が、そんな甘い空気をぶち壊した。
信武は二人に遠慮する様子を見せる事もなく、永環の部屋へと入ってきた。
「ああ、信武か。こちらに来てからは初めて姿を見るな」
「そういえばそーだっけ? それはともかく、着物にするならもっと金とか銀とかの刺繍が入ったヤツの方がいいぜ絶対」
「確かにその方が見栄えが良いと思うが、永環はあまり派手な柄だと恐縮するかと思ってな」
「かーさん地味なのが好きだからな。そう言えばこの間ニュースで見た、アンタが何かの式典だかで羽織ってたヒラヒラマントみたいなやつ、かなりカッコ良かったぜ」
「ああ、あの鳳凰の柄の外套か。あれは確かによい柄だと気に入っている」
そんな親子の会話を聞いて、永環は確信した。
信武の壊滅的な美的センスは、確実に愛染院 明丸からの遺伝だったのだな、と。
__午後3時
高千穂家では午後になると各々がそれぞれ趣味の時間を過ごす事が多い。
巡流はこの時間帯に限らず、いつも縁側に居る。
信武は家にいないことも多いが、在宅時は天界のネットワークサービスを利用して様々なジャンルの情報収集をしていたり、たまに動画視聴やゲームをしていたりしている。
命音は庭の一角で家庭菜園をはじめたので、そちらで植物の世話をしている。取れた野菜や果物が食卓に並ぶことも多い。
初瀬は主に「自分磨き」と称して美容関連を中心に色々な事を調べたり、他人を巻き込んで色々と試したりしている。道場で体を動かしている事も多いみたいだ。
逢瀬は天界に来てからも鍛練の日々だ。メイクボディに余念が無い。
茜葎は最近興した骨董事業のスタートアップで日々忙しそうだ。
永環はそんな家族の様子を垣間見ながら、この時間帯は大体居間にいることが多い。
巡流にお茶を出したついでにと、お茶菓子をつまみつつ休息の時間にしているのだ。
ただ今日は、いつもなら並んでいるお茶菓子は座卓の上に無い。
昼にあれだけカロリーが高そうなものを食べてしまったので、自重しているのだ。
「よぉ、永環。今日はこっちに居たんだな」
永環が居間の入り口へと視線を移すと、そこには火車丸の姿があった。
今日は珍しく永環の交神相手である三柱全員が永環の元へと訪れている。こんな日は中々無い。
「火車丸様、いらっしゃいませ。今、お茶を煎れますね」
「どーもお構いなく。ホラ、お待ちかねのスイーツだぜ」
そう言うと、火車丸はいつも通りに永環の目の前に菓子箱を置いた。
永環は菓子箱をじっと見つめている。
いつもなら遠慮しつつも箱を開けようとするのに、変な様子を見せる永環に対し火車丸は不思議そうな声を出した。
「どーしたんだよ。いつもみたいに遠慮無く食えよ」
「その……今日はお腹がいっぱいなので、後で頂きますね」
「珍しいな。何かあったのか? 永環がスイーツに飛びつかないなんて」
「わ、私だってそういう日もあるんです」
永環は菓子箱から視線を外す。
次の瞬間、永環の意思と反して腹から音が鳴ってしまった。
途端に永環は顔を赤らめる。
今日のお昼はカロリーが高そうだからと、かなり控えめにしてしまった。
そんな事もあって、本当はとてもお腹が空いていたのだ。
空腹紛れにお茶を飲んだりしていたのだが、どうしても誤魔化しきれなかった。永環の不覚である。
「何だよ、言葉と腹が相反してるぜ?」
「いいんですっ! もう放っておいて下さい!」
「良くねぇだろって。何があったんだよ、いいから俺に教えろって」
何度も火車丸に急かされて、仕方なく永環は今日の朝のやりとりを白状する。
事の顛末を知った火車丸は大げさに笑い出した。
「あははははっ、んだよそれ。そんなの気にすることねぇだろうが」
「火車丸様には関係ない話かもしれませんが、私が気にしているんです」
「関係なくないだろ。腹減りすぎてぶっ倒れたらどうするんだよ。いいからコレ食っとけって」
「嫌です」
頑なな永環の態度を見て、火車丸はため息を吐いた。
その表情には怒りが見え隠れしている。
永環はそんな火車丸の姿を見ると、申し訳なさそうに俯いた。
「まぁ女にとって体重は重要な話かもしれねぇけどよ、お前そんなに太ってねぇから心配するなって。俺の言う事が信じられねぇのか?」
「そんなこと無いです。でも火車丸様だって前に言ってたじゃないですか。お腹周りのこと」
「あれはただ茶化しただけだって。それにお前、そうやって好きにモノ食べられないと、逆にそれがストレスになって太るぜ?」
「……そうなのですか?」
「ああ、姉ちゃん……いや姉が友達の女神達にそう言ってたからマジだ。姉は手が早いし口も悪いけど嘘は吐かねぇ」
火車丸が姉である吉焼天 摩利の事を持ち出してまで永環の説得をする。
普段、火車丸は姉や家族の話をあまりしたがならい。それは火車丸が姉に対して抱いている劣等感の所為、らしい。
永環も愛染院 明丸から少し聞いた程度なので詳しくは知らないが、火車丸が「吉焼天」を名乗っていない事にも関係があるとの事だ。
誰にも触れられたくない事が一つや二つはある。だから永環も敢えてそこには触れないようにしていた。
「…………判りました。頂きます」
「おう、遠慮無く食え」
永環は目の前に置かれた菓子箱を開ける。
中には桃を使ったケーキが入っていた。
お腹が空いているのも相成って、とても美味しそうに見える。
ケーキを取り出し、付属のフォークを使ってケーキを口へと運ぶと、口の中いっぱいに桃の香りと甘さが広がった。
「……火車丸様、とっても美味しいです。ありがとうございます」
「だろ? また何か良さげなモンがあったら、持ってくるよ」
「はいっ、期待してますね」
そんな話をしながら永環がケーキを頬張っていると、居間に初瀬と逢瀬が現れた。
二人共父親の姿を見ると、表情が綻んでいく。
「あっ、父さまだ! ねぇねぇっ、アタシにもケーキある?」
「残念だけど限定一名様だ。また今度な」
「えーっ、いいなぁ母さまだけ。今度は絶対買ってきてね」
「父上聞いて下さい。なんと、ウチの道場に低酸素トレーニング用の施設が新設されたのですよ!」
「おい、それマジかよ。羨ましいな。後で見に行っていいか?」
嬉しそうに父親へと話しかける子供達の様子を微笑ましく眺めながら、永環はケーキを口の中に運んでいく。
体重や体型の事が気にならなくなった訳では無いけれど、やっぱり美味しいものや甘いものは止められない。
食べる方を制限するのではなく、体を動かす時間を作ろう。
そう、永環は思った。
__午後7時
「ではではっ、いただきまーす!」
初瀬から元気のいい声が出たのを合図に、家族全員が箸に手を付けた。
本日の夕飯は筑前煮と冷や奴。
聞いたところ豆腐は沢山食べても問題無いらしく、豆腐好きの永環には嬉しい限りだ。
「そう言えば巡流さんって、ここに来てから殆ど道場に来てないって言ってたけど、全然剣の腕落ちてないんじゃない?」
巡流は今日道場で初瀬と手合わせをしていたみたいだ。
どうやら朝の一件は本当に実行されているらしい。
無言実行、やると決めたら一直線な巡流らしい行動だ。
「そうかい?」
「うんうんっ、アタシなんて2〜3日薙刀を持ってないだけで動きが鈍るのに、そんな感じ全然しなかったよ」
「……剣は毎日持ってるよ。素振りは続けているから」
「ええっ!?」
家族全員の視線が巡流に集まる。
予想外の反応を受けて、巡流は目を丸くした。
「そんなに驚くことかい?」
「だってじーさん、そんな様子全く見せてなかったじゃないか。いつやってるんだよ」
「特に時間は決めてないよ。素振りは地上に居た頃から毎日やっていたし、別におかしい事ではないだろう?」
「地上に居た頃から……私も全然知らなかった……」
一族の誰よりも一緒に居る時間が長かったであろう永環も知らなかった事実だ。他の人が気付くはずも無い。
巡流は皆の反応を不思議に思いながらも、箸を筑前煮へと伸ばした。
「当主様の事といい、今日は本当にビックリする事がいっぱいあるわね」
「ボクは道場に低酸素トレーニング室が増えてた事にビックリしたけどね。何でボクの地下冷蔵室が駄目で逢瀬の低酸素トレーニング室はいいんだよ」
「格納物の違いだ。ウチに怪しいモノや曰く付きのモノを持ち込むのを止めてくれよ。腐ったり溶けたりしたらどうするんだ」
全く兄さんといい本当に理解出来ない事を言い出すんだから……と命音は呆れながらお味噌汁に口を付ける。
今日の具材は茄子。命音の家庭菜園で収穫された野菜だ。茄子は初めて栽培したがとても出来が良く命音自慢の逸品である。
「ちぇっ、防腐処理済みだし、そもそも腐りきった後だから大丈夫だって言ってるのに」
「……なぁ茜葎、お前どれだけ不気味なモン家に持ち込もうとしてるんだ?」
さすがの信武も少し引き気味な反応を見せている。
これ以上は夕飯時にする話では無いと悟った逢瀬が、無理矢理話の方向を変えた。
「ま、まぁそれはいいとして。巡流さん、夕飯後にお時間を頂けませんか? 今後のトレーニング予定の話と、それと俺も是非手合わせを願いたいです」
「構わない。しかし君は弓使いだと聞いていたが……」
「剣術槍術など一通り熟しています。ただ実戦で使うことが無かったので、どこまで通用するかは説明出来ませんが」
「判った。よろしく頼むよ」
巡流は頭を軽く上下に振ると、冷や奴に箸を付ける。
不穏な空気が一掃されて永環はホッとした。
茜葎が言っていた冷蔵室の話を永環は知らなかったのだが、命音が伝えなかった事や逢瀬の反応からすると、あまり気持ちの良い話ではないのであろう。
敢えて聞くのは止めた。
__午後9時
夕飯が終わり後片付けも終わり。
一息ついた後、永環は風呂場へと向かっていた。
大体永環が風呂に入れるのはこの位の時間になってしまうのだが、この時間帯だと既に皆が風呂に入り終わっており、のんびりと長湯が出来るので永環としては都合が良い。
高千穂家の風呂は、信武自慢の源泉掛け流し温泉だ。
……こんな場所に温泉がどうやって出てきたのか理屈はよく判らないが、信武曰くこの温泉は肩こりの解消と美肌効果があるらしい。
日々の家事で肩こりが酷くなっている永環にはありがたい効能だ。
また、浴室内も和モダンに改装されており、露天風呂やサウナ、岩盤浴もある。
逢瀬の低酸素トレーニング室と言い、こんな立派な施設を簡単に家へと提供してくれるのは何故だろうか?
理由が判らず不安な気持ちもあるが、だからといって折角整備してくれた施設を使わないのは申し訳無いし勿体ない。
自分達の面倒をみてくれている知らない誰かに感謝しつつ、ありがたく使わせて貰っている。
永環は風呂場に着くと、何気なく引き戸を開けた。
……本来だったらここで疑問に思っておくべきだった。
基本的に風呂場は誰も利用していない時には、換気を目的に入り口の引き戸を開けるようにしている。
そして、引き戸には「使用中」と書かれた札が掛けられていた。
引き戸の向こうの光景に、永環の瞳は大きく見開かれた。
あの個性溢れる四兄弟を育て上げた母親だ。ちっとやそっとの事で大げさに驚いたりなんてしない。
討伐時に突然黄川人が現れたときでも、ここまで大きく瞳が見開かれた事は無い。
それ程に、永環の目前にある光景が永環に理解出来ない内容であったのだ。
目の前に、巡流がいる。
恐らく風呂上がり直後なのであろう、手ぬぐいを頭に被った状態だ。
そして今彼が身に付けているのは、その手ぬぐい一枚のみ、であった。
引き戸が開かれた音に巡流は反応した。
そして、目の前に永環がいるのを確認し、永環の方へと体を向ける。
「ああ、永環か。僕に何か用事かい?」
動じることも無く話し始めた巡流の声で、ようやく永環は我に返った。
そして、瞬時に顔を耳まで真っ赤に染めると、思わず平手で巡流の頬を叩いてしまった。
パチンと軽い打撃音が、浴室内へと響いてゆく。
「とっ、当主様のすけべっ!」
そう言うと、永環は一目散にその場から逃げ出していった。
残された巡流は、理由も判らず永環が居た場所を見つめていたが、束の間の後、少し寂しそうな表情のまま風呂場の引き戸を閉めた。
__午後11時
この時間帯になると、高千穂家では既に床へと就いている人の方が多い。
茜葎が夜更かしをしている位だ。
いつもなら信武も起きていることが多いが、今日に限っては既に就寝中である。
占い稼業は場所柄深夜を跨いで行う事が多く、この所ずっと昼夜が逆転しており、今日は寝ずに帰宅していたからだ。
永環も既に夢の中。
色んな事が起こったが、概ねいつもと変わらない賑やかで楽しい一日であった。
きっと明日以降もこんな日が続いていくのだと、そう思いつつ。
おやすみなさい。
丁度天界側の話が一段落付いたので、現状の整理を兼ねて番外編を作ってみました。
永環をメインに、時間帯によって取り上げる人物やエピソードを変える、短編集みたいな作りになっています。
中には今後の展開にと考えてるネタも多少織り込みつつ、信武時代のワチャワチャ感を思い出しながら楽しい話に仕上げてみました。
ほらさ、本編が最近どうにも重い展開が続いているから、たまには気分を変えたいよねって。
(主にプレイヤーが)
しかし、些か遊び過ぎた部分もあるような……。
神様の性格設定とか勝手に盛っていますが、高千穂一族カスタムと言う事でご理解願います。
神様方のファンの方、すみません。
それと、今回は敢えて挿し絵は入れませんでした。
いやもう、何処に、何を、どれだけ入れればいいのか判らなくなり収拾が付かなくなったので。
複数エピソードをぶっ込んだ弊害という事でご勘弁を。
信武世代は楽しいなぁ。
四兄弟がそれぞれ個性が強くて、前向きで、明るくて、書いていてとても楽しかったです。