1020年8月 選考試合:夏

信武は最後の最後、限界ギリギリまで「信武」で居たんだろうなぁ。
そう思っています。

※1018年12月は自習。1019年1月は永環交神で休養

※1019年11月は命音の交神で休養。1019年12月以降は討伐隊勇退の為、基本的に休養。

信武は高千穂家には無くてはならない存在でした。
静寂に包まれた高千穂家に新しい概念を持ち込み、今のような明るく楽しい雰囲気の家へと変貌させてくれました。
プレイヤーは信武の事を来訪時に「新しい風」と表現していたのですが、正しく風のように立ち回ってくれていたと思います。
素質自体は何故かが強かったのですが……ホント何故だろう?

#愛染院 明丸様はの神様
(これも久し振りだな……)

信武の行動の源は、祖父である巡流に対しての反抗心です。
反抗心といっても別に巡流を嫌っていた訳じゃ無く、逆に慕っていたからこそ認められない、そんな所でしょうか。
(その点については永環も同じ事が言えるのですが)
ほんの数ヶ月とは言え巡流と共に生きてきた信武には、悲願達成だけ目指して生きていた巡流の人生がとても酷い有様に見えていた。
だからこそ娯楽に拘り、人としての幸せだったり、人生の充実に重きを置くようになったんだろうなと思います。

彼の残した色んな物は、後の高千穂家でも存分に生きていく事でしょう。
ええ、買い込んだ姿絵も後に生きてくるはずです、絶対(多分)

信武と言えば、特徴である「こだわり:画数」に関わる、占い関連の話をいつか入れようと思っていたのですが、気付いたらこんな終盤で、それも集大成みたいな形で入れる事になってしまいましたね。
来訪時に特徴を見た時「え?この子スピリチュアル系??」と思ってしまったのですが、思い付いた性格がスピリチュアル系とは真反対で。
このプレイ記を読んでくれた方の中には「何でこの性格で画数に拘ってるんだろう?」なんて疑問をお持ちになった方もお見えかもしれませんね。

信武が語った占いに対する認識は、彼自身の信念を表した内容だったなと思っています。
二代目当主となってから初めての仕事が「当主名ミドルネーム化」だった訳ですが、それも当時の信武なりに考えた「高千穂家をよりよい環境にする為の作戦」だった訳で。
自分も含めたこれからの当主達が「当主としての人生だけではなく自分自身の人生を歩けるように」と言う願いも入っていたんだろうと思います。

そんな信武の遺言なのですが、もう何と言うか、とっても信武らしかった。

コレです。
見た瞬間思ったのが「……言葉の意味はよく分からないが、とにかく信武が言いそうな言葉だ」でした。
信武お前、最期の最期まで何を格好付けているんだ、って。

思い返してみると、信武って自分から「朱点童子打倒」を掲げたことは無いんですよ。
巡流の生前はまだ子供で、時間があれば町で遊び回り、討伐すらも家族との行楽みたいな部分があって。
当主になった後も「鬼退治だけが人生じゃない」と言って柄物の着物を持ち込んだり姿絵や娯楽部門に拘ったりと「今本当にそれが必要なのか?」って事ばかりしていたような気がします。
遺言も朱点童子や一族の宿命に関わる話には全然触れておらず、それどころか自分の「これから先の未来」の話をしているんですよ。
何と言うか……強いよなぁ……信武は。

そして、この言葉の意味はそれだけではありませんでした。

ヒバリ=春を告ぐ鳥
東風=春風

『春風を受けて羽ばたく春の鳥となり、自由に空を飛び回りたい』
……とまぁ、そう言う事なのね、って。
結局のところ、信武は来世でも東風吹姫と仲良くしたいと言っているんですよ。
こういう所もまぁ、信武らしいというか何と言うか。

当主職を継いだのが0才3ヶ月の時。
本当に長い間、信武は高千穂家の当主として歩み続けてくれました。
季節で表すなら百花繚乱の春に当たる、そんな期間だったなぁと思います。

信武は高千穂家にとっては雪解けを促した人物で、春に吹く風を娶り、風と共に旅立っていきました。
正直言ってとても惜しいのですが、彼の意を汲み、見送ろうと思います。
高千穂家に来てくれて本当にありがとう、信武。

主な戦利品:無一文茶碗、御井戸香炉、竹二重花入、緑ノ指輪、黄ノ指輪