1019年1月 閑話:希う

彼の真意は、彼の中だけに。

俺屍における理論上最短の大江山越えは、1018年11月です。
…つまりプレイヤーの選択肢に「初代で大江山越え」は一応存在するんですよね。
相当大変なので狙ってやらない限りは無理ですが。
プレイスタイルにも依りますが、大江山は2〜3代は重ねた後で挑む場所なのかなと思っています。

そう言った事情から、初代当主が自身の大江山越えを「止める」タイミングは多種様々なのかと。
巡流にもタイミングがあり、結果自分の未来よりも永環達の未来の為に動くようになったのだろうと思います。
そんな巡流の行動の一つに「一族の系譜をどう繋げていくのか?」と言うのがあったのですが、この選択が後に大きな影響を与えたよなと今更ながら痛切に感じています。

プレイヤーとしては分岐を何処から始めるか最初少しだけ悩みました。
悩んだ理由は……巡流の素質が想定以上に低かった事、です。
正直な話、開始直後に巡流の遺伝子情報を見た瞬間、頭を抱えました。
だって巡流の遺伝子バー、一つ目のメモリを超えてるの一つも無いんです。
どれ位にヤバイのかを表す為に、過去プレイした一族における初代当主の遺伝子バーと比較してみますね。

ちなみに比較対象にした初代当主の素質点は41点。巡流の素質点は27点なので、約1.5倍ですね。
記憶している限りで一番低い初代当主の素質点が24、5点なので、巡流はかなりの底引きではないかなーって思います。

それとは対照的なのが永環です。
永環は初代当主の第一子にしては、素質点がかなり良い方なのですよ。
個人的な感覚ですが、初代当主の第一子は素質点が大体50〜90点辺りな気がするので、142点はかなり良引きだよなと思います。

二人の素質点差は115点。
ここまで素質点に差が開いているのなら、永環から一族を分岐させた方が、後の事を考えると良いのかも?
…という解釈がプレイヤー側に生まれてしまいまして。
結局この判断を採用してしまいました。軽い気持ちで。

今思うとこの判断は序盤の基盤固め的には少々良くなかったです。
作中で信武が言った通り「オレが生まれる前にじーさんが交神していれば」討伐は今より楽だったかと思います。
今より手数が増える分奉納点も稼げて、素質点の面でも挽回出来た可能性が高かったかもしれません。

でもそれ以上に大きい影響が出たはのは、一族の関係性ですね。
永環の感情がこちらが想定した以上に拗れてしまった(不和自体は想定していたけれど)
信武との関係も何だか暗雲が立ち込めてきた様子(こちらは全く以て想定外)
例え話として、もし信武が巡流の子供だったとしたら、永環に過度なプレッシャーが集中する事も無く、多少の行き違いはあったとしても巡流と家族の関係はもっと良好だったかもしれない。
この点に関しては正しく誤算、です。

プレイヤー側の誤算はこれだけではありません。
俺屍の初代当主は寿命が固定なので、巡流の寿命が1才6ヶ月だとプレイヤーは最初から知っていた上で攻略を進めていたけれど、巡流はそうではなかった。
この違いの大きさが巡流を追い詰め、家族の不和を拡大させる事になるとは露程も思っていませんでした。

俺屍をプレイするときに常々思っている話なのですが、ゲームの事前情報にある「一族の寿命が約2年」って最長寿レベルだった場合の話で、大抵はこれより数ヶ月寿命は短くなるんですよね。
何人も見送った後の一族ならば自分達の平均寿命を予測出来ると思うんですが、初期の一族…とりわけ初代当主はその辺の事情を全く知らない訳で。
……巡流が自分達は2年位の寿命だと仮定して討伐計画を練っていたと言うのは十分あり得る話だったよな、と。

仮定通りなら永環の子供が揃い全員討伐可能となった夏頃に巡流が居なくなり、永環の寿命がその年の末頃。
永環の寿命ギリギリの二年目に照準を合わせる事で、永環達が悲願達成を果たし末永く幸せに暮らして行く未来があると信じていたんだと思います。
しかし想定以上に自分の残り時間は短く、永環も二年目の年末まで持たない可能性が高くなってしまった。
自分の寿命の短さが切っ掛けでその事に気付いた時の巡流の心境は、正に「希う」なのだと思います。

プレイヤーの判断一つで一族の進む道が大きく変わってしまう。
軽い気持ちで選んだ内容によっては幸福にも不幸にもしてしまう。
巡流の一件はそれを如実に表した出来事ではないかと思います。

ちょっと言い訳…と言うか巡流の名誉の為に追記しますが、巡流は別に弱く無いです。
永環とのペアで右近亭の討伐も出来てましたし。
むしろ永環とのペアでここまでの戦果を出せたのは、巡流の実力があってこそだろうなと思っています。